石川啄木と関わりのあった人々

石川啄木はわずか26年の生涯で、さまざまな人と出会いました。

同郷の国語学者金田一京助をはじめ、のちに日本の文壇を背負う森鴎外や与謝野鉄幹・晶子夫妻など、啄木の文学形成に大きな影響を与えた人は少なくありません。

さらには、生涯全面的な援助を惜しまなかった宮崎郁雨ら函館の「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)の面々。

これら、石川啄木とかかわりを持った人々を知ることも啄木文学を知る上で重要な点と考え、紹介します。
 
 

大分県臼杵の美人? 平山良太郎

平山良子=平山良太郎については、
以前、記事を書きましたが、

大分に住む友人が、臼杵の啄木茶房「ふしみや」さんに出向いて、写真を撮り、送ってくれました。
啄木が受け取った写真なども展示されており、
直筆手紙と全集収録の書簡とを照合してみたら、

全集の内容にかなりの不備が発見されました。

今日2010年12月1日は、
ちょうど100年前の1910年12月1日(明治43年)に、
『一握の砂』が発刊された日。

臼杵の歌人「平山良子=平山良太郎」について、
新たな情報を加味して、まとめなおしてみました。

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小樽の文化興隆に貢献した「高田紅果」

石川啄木の歌集「一握の砂」の中の「忘れがたき人人」にこんな歌があります。

  あはれかの(まゆ)(ひい)でし少年よ
  (おとうと)()べば
  はつかに()みしが

この歌のモデルは、当時17歳の高田紅果(こうか)(本名:治作)です。

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石川啄木と夏目漱石 そして 正岡子規

石川啄木は夏目漱石に一目置いていました。

夏目漱石の友人正岡子規との面識はあったようですが、まったく気に留めていなかったようです。

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啄木の妹光子に恋文を送った花郷

一握の砂「煙(一)」にこんな歌があります。

     近眼(ちかめ)にて     
     おどけし歌をよみ()でし
     茂雄(しげを)の恋もかなしかりしか

「茂雄」とは花郷、啄木の文学仲間です。

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啄木が騙されて想いを寄せた平山良子、実は平山良太郎という男性

啄木が想いを寄せた女性として、妻の節子、函館時代の「橘智恵」、釧路の小奴が有名ですが
啄木は明治41年4月24日、単身、海路、函館から横浜に向かい、4月28日、千駄ヶ谷の新詩社に入り、文芸誌「明星」の主宰である与謝野鉄幹・晶子夫妻のもとで文芸活動を続けます。

新詩社には短歌の添削指導を行なう「金星会」という組織があり、5月4日、与謝野鉄幹はこの部門を啄木に任せることを告げました。

与謝野鉄幹が多忙であったこともありますが、歌の添削指導により、いくばくかの収入が得られるので、鉄幹の啄木に対する配慮でもあったのです。

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啄木が熱烈な恋文を送った菅原芳子

石川啄木は与謝野鉄幹・晶子が主宰する新詩社の短歌添削指導部門である「金星会」を任せられました。
熱心に活動する「御光(みひかり)会」のメンバーに菅原芳子という女性がいて、啄木は熱烈な恋文を書き送っています。

啄木が想いを寄せた女性として、妻の節子、函館時代の「橘智恵」、釧路の小奴が有名ですが、啄木の恋心をこれほどあからさまに書き記した例はありません。

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歌会始の選者も務めた「吉井 勇」

与謝野鉄幹・晶子夫妻が主宰する雑誌「明星」は明治41年(1908年)11月、100号をもって終刊となります。

翌年1月、石川啄木は、平野万里、吉井勇とともに、「明星」に代わる雑誌「スバル」を発刊します。

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啄木の臨終に立ち会った若山牧水

石川啄木は明治45年(1912年)4月13日午前9時30分、
短い生涯を閉じました。

臨終に立ち会ったのは父一禎、妻節子、
そして、友人若山牧水の3人と娘京子でした。

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啄木が処女詩集「あこがれ」を献じた尾崎行雄

石川啄木の処女歌集「あこがれ」は明治38年(1905年)5月、小田島書房から発刊されました。

その扉には次の献辞を掲載しました。
「此書を尾崎行雄氏に献じ併て遙かに故郷の山河に捧ぐ」

「あこがれ」発刊に当たって、尾崎行雄氏にどれほどの支援を受けたのでしょうか。

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詩集「あこがれ」の出版資金を提供した小田島尚三

石川啄木の処女詩集「あこがれ」が発刊されたのは、明治38年(1905年)、啄木19歳のことでした。
出版費捻出のため、啄木はつてを頼って奔走します。
多額の資金を提供してくれたのは、小田島尚三でした。

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啄木を朝日新聞に採用した佐藤北江

 石川啄木は明治41年(1908年)北海道漂泊を終えて4月末上京し、金田一京助の下宿先に止宿します。
 小説を書き、文学で生活費を購おうとしますが、うまくはいかず、翌明治42年3月、東京朝日新聞に履歴書を送ると、意外に簡単に採用されることになりました。
 採用を決めたのは、啄木の郷里の先輩、佐藤北江でした。

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啄木文学の形成に大きな影響 与謝野鉄幹・晶子

石川啄木が中央文壇に初めて顔を出したのは、与謝野鉄幹が主宰する「明星」第三巻第五号に掲載された一首。

  血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらいここに野にさけぶ秋

啄木も師として仰ぎ、鉄幹・晶子も弟子として可愛がるのですが、啄木にとって大きな収穫は、ここに集まる文学仲間との交流でした。
吉井勇、北原白秋、そして森鴎外、彼らから受けた刺激は啄木の文学形成に大きな影響を与えました。

与謝野鉄幹・晶子、特に晶子が遺した業績は大きく、女性としての魅力も並外れたものがあったようです。


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石川啄木の親友 金田一京助

金田一京助
1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日)

アイヌ語研究で知られる日本の言語学者、民俗学者。
國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。
文学博士。文化勲章受章。従三位勲一等。盛岡市名誉市民。

石川啄木とは同郷のよしみ、盛岡尋常中学校の先輩・後輩の間柄、文学仲間でしたが、啄木の東京での生活に対する経済的援助は並大抵のものではありませんでした。

もし金田一京助の援助がなかったら、啄木の生涯は極めて悲惨なものとなっていた筈です。


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石川啄木と野口雨情

野口雨情といえば、『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などの童謡や『波浮の港』『船頭小唄』など数々の童謡や流行歌を作詞した詩人。

石川啄木は小樽の「小樽日報社」で2ヵ月ほど机を並べています。
だけど、啄木サイドからみると、ちょっと腑に落ちない文章を残しています。続きを読む

帝国議会議員 白石義郎

白石義郎』(しらいし よしろう)は、石川啄木が小樽に滞在していたころの小樽日報社の社長、また、釧路新聞社の社長も兼ねており、啄木が小樽から釧路に向かう際には、釧路まで同行しています。

帝国議会議員として自由民権運動に参加したり、北海道議会議員として活躍するなど、政治活動も行っています。

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啄木を物心両面で支え続けた宮崎郁雨

宮崎郁雨は函館の文芸結社「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)の同人。
明治40年(1907年)5月に啄木を岩手県から迎え、以後、啄木歿後も啄木一家を物心両面にわたって、支え続けた人物です。

自身も歌人として、多くの短歌や啄木に関する著作も遺しています。

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石川啄木と渋川玄耳(藪野椋十)

渋川玄耳(しぶかわげんじ)
啄木が北海道を離れ、東京の東京朝日新聞社に就職したときの社会部長です。本名は渋川柳次郎。
啄木を「朝日歌壇」の選者に推挙した人物です。

啄木は処女歌集「一握の砂」発刊にあたり、渋川玄耳に序文の執筆を依頼し、藪野椋十(やぶのむくじゅう)という筆名で執筆しています。

洒脱な文調で、人柄がよく現れているように感じます。

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