「赤い靴はいてた女の子」は異人さんに連れられて行かなかった

野口雨情作詞、本居長世作曲の童謡「赤い靴」は誰もが知っている歌です。

女の子の名前は「きみちゃん」。
実は横浜から船に乗ってはおらず、東京の孤女院で、9歳のとき亡くなっています。

野口雨情といえば、啄木との関係も薄からず、2007年11月23日、小樽に全国5番目の銅像が建立されたというニュースを目にして、「きみちゃん」のことを調べてみました。
 
童謡「赤い靴」はこんな歌詞です。

     赤い靴 はいてた
     女の子
     異人さんに つれられて
     行つちやつた

     横浜の 埠頭(はとば)から
     船に乗つて
     異人さんに つれられて
     行つちやつた

     今では 青い目に
     なつちやつて
     異人さんのお国に
     ゐるんだらう

     赤い靴 見るたび
     考へる
     異人さんに逢ふたび
     考へる


「女の子」の名前は「岩崎きみ」(1902−1911)
その母は「岩崎かよ」

「きみちゃん」は明治35年(1960年)7月15日、清水市日本平で生まれました。
いろいろな事情で、静岡にはいられなくなり、母親に連れられて北海道函館に渡ります。

1年後、青森県鯵ヶ沢出身の鈴木志郎と結婚します。
鈴木志郎は社会主義者の集まりである「平民社」の一員として、留寿都村の「平民社農場」を開拓するため、明治38年(1905年)に入植します。「きみちゃん」は3歳のころです。

想像を絶する厳しい開拓環境の中で病弱な「きみちゃん」を育てることは困難と判断した鈴木志郎は、函館のアメリカ人宣教師チャールス・ヒュイット夫妻の養女に出します。

かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火災や冷害に遭い、営農はままならず、平民社も解散することになり、札幌に引き上げます。

明治40年(1907年)のことです。

明治40年といえば、石川啄木が函館大火に追われて札幌の北門新報社に就職した年です。

鈴木志郎もさいわいに札幌の北鳴新報に勤務でき、ここで、野口雨情と会うことになります。

石川啄木、鈴木志郎、野口雨情の3人は間もなく、知人を介して小樽の「小樽日報社」に転職します。

「きみちゃん」の母、すなわち、鈴木志郎の妻「きみ」は、夫の同僚であった野口雨情に「きみちゃん」のことを話します。

宣教師の任務期間を終え、すでに本国に帰っているのかもしれない、「きみちゃん」と別れるときに履いていた赤い靴や外国人を目にするたびに、手放した「きみちゃん」のことを思い出すことを切々と話したことでしょう。

野口雨情、石川啄木ともに社内のいざこざに巻き込まれ、2ヵ月ほどで小樽日報社を退職しますが、総務の仕事をしていた鈴木志郎は啄木のあとを次いで記者になります。

野口雨情はこのことを後年思い出して、童謡「赤い靴」として発表します。大正10年(1921年)のことです。翌年、本居長世が曲をつけ、爆発的にヒットします。

野口雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。「しゃぼんだま」の中で「生まれてすぐにこわれて消えた」と歌っているのは、そのことを表現したとも言われており、「きみちゃん」のことも吾が子とだぶって、強く印象に残っていたものと思われます。

石川啄木はすでに明治45年(1912年)、10年前に亡くなっています。

小樽日報は間もなく廃刊となり、社会主義思想とキリスト教に傾倒していた鈴木志郎夫妻はカトリックの洗礼を受け、伝導士として樺太に渡り、昭和15年(1940年)、再び小樽に戻っています。

鈴木志郎と妻かよの間には7人の子どもがいました。
「かよ」はその子どもたちに、異父姉がいることを話し、いつかその消息を探してほしいと常々話していたようです。そして「野口さんが作ってくれた『赤いくつ』の歌はお前たちのお姉さんのことなんだよ」と話しながら、歌って聞かせていたのです。

函館の宣教師チャールス・ヒュイット夫妻はすでに函館にはいないし、太平洋戦争の真っ只中、アメリカまで消息を求めることは極めて困難なことだったと思われます。

悶々のうちに、「かよ」は昭和23年(1948年)に亡くなります。
夫の鈴木志郎も5年後に亡くなります。

野口雨情が亡くなったのは昭和20年(1945年)のことです。

野口雨情も鈴木志郎も鈴木かよも、「きみちゃん」はてっきりアメリカで元気に過ごしているのだろうと思って、この世を去ったのです。

「かよ」が亡くなった25年後の昭和48年(1973年)11月、北海道新聞夕刊に投書がありました。

「童謡『赤いくつ』の女の子は私の姉です。どうかその消息を探してください」

投書の主は「岡 その」さん、「きみちゃん」の異父妹だったのです。

新聞の投書欄ですから、誰かが読んでも「へぇぇ」と読み飛ばしてしまえばそれまで。

当時、北海道テレビの社員だった菊池寛(文豪菊池寛とは別人ですよ。現在は北星学園大学文学部)氏がこの記事に目を留め、5年余りにわたる調査を続け、「きみちゃん」の消息が明らかになりました。

菊池寛氏は母の生家である静岡県はもとより、函館、アメリカにまで渡り、徹底的に「きみちゃん」を探し回ったそうです。

その結果、わかったのは「きみちゃん」は横浜の波止場から船に乗ってはいなかったのでした。

アメリカ人宣教師チャールス・ヒュイット夫妻は「きみちゃん」を引き受けたときは函館にいたのですが、その後、日本を離れて宣教に回っていたようですが、本国から帰国命令が出て、アメリカに帰ることになりました。

ところが、「きみちゃん」は結核に罹っており、長い船旅には耐えられそうもなく、やむなく、東京の麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤女院に預けられることになったのです。

結核といえば、当時は不治の病で、渡航の許可もおりなかったのでしょう。

病は一向に快復せず、9歳の秋に息を引き取ります。

3歳で母と別れ、6歳で育ての親と別れ、わずか9歳の短い命、幸薄い人生でした。


せめてもの救いは生母がそのことを知らず、「きみちゃん」が幸せに異国で暮らしているであろうことを信じていたことでしょうか。

いま、日本国内に「赤いくつ」の銅像が5ヶ所に建立されています。横浜のメリケン波止場にある銅像は有名ですが、5ヶ所目の銅像はつい最近、11月23日、北海道小樽市に建立されました。

小樽ジャーナルのサイト

他の4ヵ所の銅像は「きみちゃん」が一人ですが、小樽の銅像は両親が手を引いています。
約100年の年月を経て、「きみちゃん」はやっと両親のもとに帰ることが出来たのです。

近々、青森県鯵ヶ沢にも銅像が建立されるようです。

※この物語は捏造であり、野口雨情は特定の人をモデルにしたわけではない、という説もあります。
念のため、書き添えておきます。

posted by GG at 23:46 | Comment(2) | TrackBack(1) | コラム
この記事へのコメント
来年、函館開港15周年を記念して、「赤い靴の少女」岩崎きみのブロンズ像を建てる計画が進んだいるようです。北海道新聞の記事のコピーを送ります。
Posted by 小山昌吾 at 2008年09月06日 16:18
先生いつもありがとうございます。
函館にきみちゃんの像を立てる計画は聞き及んでいたのですが、除幕式に立ち会ってみたいですね。
Posted by 管理人GG at 2008年09月06日 17:39
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Tracked: 2008-05-12 18:18
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