石川啄木 わがあとを追い来て 知れる人もなき

わがあとを追ひ来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな


歌集「一握の砂」に収められている歌です。(308番目)

石川啄木は明治40年(1907年)、満21歳の5月4日に岩手県渋民村を出発し、函館に向かいます。

このとき、妻節子と長女京子は、節子の実家がある盛岡に残し、啄木は単独で函館に向かい、翌5月5日に函館に着きます。

その年の7月から8月にかけて、妻子を盛岡から、母を青森県茂辺地から、妹を小樽から呼び寄せ、やっと散り散りになっていた家族と生活をともにします。

啄木は「苜蓿社」(ぼくしゅくしゃ)のメンバーと多少の交流があったものの、妻子や母は、北の辺土に知人もなく、不安が大きかったものと思われます。

しかし、啄木自身も定職を得、貧しいながらも家族が水入らずの生活をし、父の住職復帰問題からも開放され、時には志を同じくする文学仲間と交流し、しばらくはしあわせな時を過ごしたのでした。

私もサラリーマン時代には転勤を余儀なくされました。

子どもたちが大学に進むころ、単身赴任の期間もありましたが、仙台に転勤になったときは、妻と二人になりました。

妻は仙台生まれだから、親戚もあり、さびしくもないと思っていたのですが、近所には親しい人も無く、ややこたえたような時期がありました。

札幌ではいつも近所の仲間とお茶のみをしたり、井戸端会議をしたり、子どもの世話をしていたのが、日中は一挙に一人で過ごさなければならなくなり、急激な生活の変化で無理もありません。

啄木家族が函館で過ごした時期が夏だからまだよかったですね。
岩手の気候に比べ、函館の冬は数段厳しく、冬になると、一段と切なさが募ったことと思われます。

こんなとき、啄木の家には仲間が集まってきました。

    こころざし得ぬ人人の
    あつまりて酒のむ場所が
    我が家なりしかな

貧しい石川家にとって、必ずしも歓迎すべき友人たちではなかったかもしれませんが、妻や母は、この友人たちを心強く感じたことでしょう。
 
 
posted by GG at 18:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 函館の歌
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