かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは


かの年のかの新聞の 初雪の記事を書きしは 我なりしかな
石川啄木「一握の砂」に収められている歌です。
(初出は「スバル」明治43年11月号)

石川啄木が新聞記者として初雪が降る季節を迎えたのは、明治40年のみであり、「小樽日報」に書いた初雪の記事を指しています。

記事の内容は次のとおりです。

「雪が雪がと子供の騒ぐ声に目をさませる。昨日の朝楊子(ようじ)くはえて障子細目に開け見れば、成程(なるほど)白いものチラチラと街ゆく人の背を打ちて、黒綾の被布(コート)に焦茶の肩掛(ショール)昨日よりは殊更(ことさら)目に立ちて見えぬ。」

 明治40年10月27日付の「昨朝の初雪」という記事です。
 
 当時は夕刊などが無かった時代なのでしょう、昨日のことをニュースとして書いています。

 それにしても、文体がいいですね。一編の詩を読んでいるようです。

 石川啄木はこのとき21歳、若くして、文体の巧みさ、漢字の使い方の妙が高く評価されています。

 この歌が初めて出てくるのは、雑誌「スバル」明治43年11月号です。

 石川啄木は明治41年(1908年)4月、勤務していた釧路新聞社を退職し、単身、上京します。

 郷里の先輩である金田一京助を頼り、森鴎外らと親交を深めます。 

 雑誌「明星」に作品を発表しますが、終刊となり、明治42年1月、意を同じくする高村光太郎、吉井勇、平野万里(ばんり)らと、雑誌「スバル」を発刊します。誌名の命名は森鴎外です。

 啄木はこの雑誌の編集・発行に携わり、創刊号には小説「赤痢」が掲載されています。

 北原白秋もこの時代に才能を発揮した詩人で、雑誌「明星」に詩作を発表しています。

 石川啄木は北原白秋から処女歌集「邪宗門」を贈られ、その日の日記にこう記しています。
「北原は幸福な人だ。
 僕も何だか詩を書きたいような気持になって寝た。」

 そうそうたるメンバーと交流を持ちながらも、啄木の作品はこの時点では評価されることはなかったようです。

 短歌を詠む意欲がふつふつと湧き出し、短歌を多作した時期でもあります。

 啄木は日記をていねいに記していました。
 小樽時代の日記を読み返し、初雪の記事を書いたことを思い出してなつかしく、歌にしたものと思われます。
 
 
posted by GG at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小樽の歌
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。