大分県臼杵の美人? 平山良太郎

平山良子=平山良太郎については、
以前、記事を書きましたが、

大分に住む友人が、臼杵の啄木茶房「ふしみや」さんに出向いて、写真を撮り、送ってくれました。
啄木が受け取った写真なども展示されており、
直筆手紙と全集収録の書簡とを照合してみたら、

全集の内容にかなりの不備が発見されました。

今日2010年12月1日は、
ちょうど100年前の1910年12月1日(明治43年)に、
『一握の砂』が発刊された日。

臼杵の歌人「平山良子=平山良太郎」について、
新たな情報を加味して、まとめなおしてみました。



石川啄木が『平山良子』に送った手紙の検証

 【目 次】

   1 啄木処女歌集『一握の砂』発刊から100年
   2 筑紫の国の女性「平山良子」
   3 臼杵市の茶房「ふしみや
   4 「ようこそ啄木茶房へ」
   5 啄木直筆書簡と全集記載の書簡の相違

1 啄木処女歌集『一握の砂』発刊から100年

石川啄木が歌集『一握の砂』を刊行したのは、明治43年(1910年)12月1日のことです。

ことし、2010年はそれからちょうど100年目に当たることから、啄木ゆかりの地では、それを記念したさまざまな行事が行われました。

啄木は『一握の砂』刊行のころ、すでに病魔に冒され、1年5カ月後の明治45年4月13日、26歳の短い生涯に幕を下ろしています。

『一握の砂』刊行から100年を経て、間もなく100回忌を迎えるこの時期にあってもなお、啄木に対する熱烈なファンは多く、また、日本の近代短歌史に与えた功績は、いまなお、大きな評価を得ています。

北海道函館市の「函館市文学館」は、2010年10月18日から2011年4月13日まで『一握の砂』発刊100周年を記念して特別展を開催しています。
函館市文学館や函館市立図書館は、数多くの啄木資料を保有しており、ふだんは門外不出の貴重な資料として、保管庫に厳重に保管されている啄木直筆の日記や書簡などが、折に触れて一般に公開されます。

今回の特別展で公開されたのは、明治45年元旦に友人の岩崎正宛に差し出した年賀状。

筑摩書房『石川啄木全集 第7巻 書簡集』(昭和54年9月発行)には次の内容で収録されています。
謹賀新年

今も猶やまひ癒えずと告げてやる文さへ書かず深きかなしみに

   四十五年元且

      東京市小石川区久堅町七四ノ四六 石川一
 岩崎正様

ところが、今回、特別展開催の新聞記事に掲載された直筆葉書は
今も猶やまひ癒えず告げてやる文さへ書かず深きかなしみに

実はこの歌は、啄木が詠んだ最後の歌とされており、僅か1文字の違い、歌の大意は大きく異なってはいませんが、歌人の意をできるだけ正しく受け止めることが重要ですから、長い間、「癒えずと」で信じ切っていた啄木研究者たちは一様に大きな衝撃を受けたのでした。
啄木研究者といえども、直筆の葉書を目にする機会は、そうそうあるものではなく、やむをえないことではあります。

小樽日報社の写真発見、直筆日記の古書市場での売買、年賀はがきの文字誤認の発見、啄木没後100年にして、さまざまな新資料が発掘されているというのも、啄木に対する関心の強さの表れともいえる出来事でしょう。

2 筑紫の国の美人女性「平山良子」

啄木が想いを寄せた女性として、妻の節子、函館時代の「橘智恵」、釧路の芸妓小奴が有名ですが、啄木は明治41年4月24日、単身、海路、函館から横浜に向かい、4月28日、千駄ヶ谷の新詩社に入り、文芸誌「明星」の主宰である与謝野鉄幹・晶子夫妻のもとで文芸活動を続けます。

新詩社には短歌の添削指導を行なう「金星会」という組織があり、5月4日、与謝野鉄幹はこの部門を啄木に任せることを告げました。

与謝野鉄幹が多忙であったこともありますが、歌の添削指導により、いくばくかの収入が得られるので、鉄幹の啄木に対する配慮でもあったのです。

豊後臼杵町(現在の大分県臼杵市)に、熱心に活動する文芸結社「みひかり会」(御光会)があり、この会に所属する菅原芳子という女性が熱心に歌の添削指導を受けています。

いつしか、添削指導の手紙は恋文に変わっていくのですが、この様子を身近に見ていた、みひかり会の仲間(主宰者)、「平山良太郎」は、「平山良子」という女性名で啄木に添削指導を請います。

女性の名前のほうが、親切に添削してもらえるという目論見だったようです。

この平山良太郎、あろうことか、自分の写真と偽って、京都の知人である芸者の写真を啄木に送ったのでした。

明治41年11月15日の啄木日記です。
(筑摩書房「石川啄木全集6」昭和53年4月、以下、書簡は全集7)
十一月十五日
豊後臼杵なる平山良子といふ女――芳子の友――から手紙、御光会の詠草を直してくれと言つて送つて来た。二十四になる独身の女だと。
 風邪の気味。(四)の五、歌留多会のところ。
 夜、凩の様な風が吹いて、侘しい淋しい! 金田一君の室で暫く語つた。
 夜ふけて、御光会の詠草をなほし、はがきと共に帰した。

こちらは、啄木が平山良子に送ったはがきです。
初めての御文おなつかしく拝見仕候。歌稿は別封御返送いたし候、只今のところ、想調共に整へる歌、幼稚浅薄なる歌相半ばし、玉石混淆とも申すべくや、在京の詞友の作にも、少きほどの佳作も有之候。
折角御奮励を望み候。
明星百号は一週間程前に発行相成候。多分すでに御覧の御事と存候、小生らにて来る一日より出すべき新雑誌の広告その号に詳しく出しおき候。
小生は都門に埋もれて日夕多忙に処し乍ら、心はさびしく暮らし居る男に有之候、寸暇の時には何卒おたより下され度候。写真お恵み下さる由、鶴首して待上候。目下「東京毎日」に連載中の小説に日ごと日ごと追はれて執筆罷在候場合、略儀乍ら葉書を以てお返事申上候。この頃は芳子様にも御無沙汰、皆様によろしく願上候、次のお文待上候、猶いらぬ事ながら、御婦人にて雅号はいらぬことと存候。  早々頓首
 明治四十一年十一月十五日夜半 
   東京本郷区森川町一新坂上蓋閉館別荘 石川啄木拝

平山良子の手紙に「写真を送る」などは、一言も書いていませんが、
啄木は「写真お恵み下さる由、鶴首して待上候。」と書いて、写真を送ってくれと言っています。

そして、11月30日に写真が届きます。
写真を受け取った日の日記です。(筑摩書房版啄木全集)
十一月三十日
おそく起きた。
平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!
スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円――最初の原稿料、上京以来初めての収入――を受取り、編輯長に逢ひ、また牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victimを返してかへる。
異様な感じにうたれた。
 九時頃から金田一君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。

平山良子の美人ぶりに驚いているのですが、実は平山が送った写真は、まったくの別人、京都祇園の美人芸者の写真を送っていたのでした。
12月5日、平山良子宛に送った手紙は、こんなふうに変わります。
君。わが机の上にほほゑみ給ふ美しき君。この写絵となつかしきお手紙手に入り候ふは去る三十日の午前十一時に候ひき。その日は終日俥を市中に駈りつ。あはれ心ならずも五日程は空しく過し候ひぬ。君はわがこの返りごとの遅れしをとがめ給はざるべし。我は日毎に新聞の小説を一回分宛かき、また昴(スバル)第一号の編集にこの十日許りを、葉書一葉かく暇だになく急しく過し候ふなれば。
君は若き女にして、我は若き男に候ひけり。若くして貧しき我は、日毎に物思ふいとまもなく打過しつつ、若きが故にさびし、市ゆく時もさびし、筆とる時も寂し、青春の血のもゆるが如き友と語る時は殊更にさびし。
夜更けて束縛多きわが境遇を思ふ時に至りては、涙もなき深き悲痛に目のみ冴えつ。君は、たとへ姉君弟君にわかれ給へりとも猶人に羨まるるきはの人なるべし。さて猶さびしと仰せらるるや、君は誠にさびしきや。わが机の上にある君はあでやかに美しくほほゑみて我のさびしさを慰め顔なるに! さて君は、待ち待ちしこの写絵を初めて手にとりし時のわが驚きと喜びとを、心のまゝに察し給へかし。あからさまに言へば、君の目は我を唆かす如し、君の口は、何事か我の待設くる事を言はむとしたまふ如し。時ありて酔へるが如き好春の心は我が心を襲ひつ。
君は若し、然れども、思ふに君は世の常の夢見る人にあらずして、既に多少人生の味ひを解し給ふ人なるべし。我も亦然り。されば我らは世の常の夢の如く謎の如き事をのみ語り合ふことをなさざるべし。そは偽りなり。我らの交りはロマンチツクの時代のそれなる事能はじ。君、我らは互ひに思ふまゝに言はむ。かの兎の如き小供らしき羞恥は、いかにもどかしき事に候ぞ。
我は君をこよなく美しき人と思ひつ。かかる人と花やかなる電燈の下に語らはむことを願ひつ。さて又手をとりかはして巷をゆかば、行く人々皆二人を見かへるなるべしと思ひつ。さらば君は軽く笑ひて我を顧み給ふなるべし――こは我の妄想に候ぞ。
君のゐ給ふ所はあまりに遠く候かな。
     *     *     *
『明星』百号も早や本屋には見えず候。小生の手許にありたるを別封にて送上候。小生は又誰からか貰ふべく候へば。
『昴』の広告はそれにて御覧下され度候。小生のは『泥濘』でなく『赤痢』といふ二十頁許りの小説に候。この雑誌は都合ありて金尾文淵堂と手を切り、発行所にて万事やる事と成り、小生公然編輯発行人に署名致すべく候。何卒みひかり会の皆様にて一部づつお買ひ下され度候、先日、かのお返しせし分のうち加納といふ人と君のとの載れる新聞一葉お送り下されしが、アレは君よりなりや芳子様よりなりや。どの歌がどの人ののか知りたく候間、外の人のもお見せ下され度候。また『昴』の広告のハガキ差出度存居候間、会員諸姉のお名前と住所至急御一報下され度候
    四十一年十二月五日午後一時
  東京市本郷区森川町一、新坂蓋平館別荘 石川啄木
 逢ふよしもなき君へ

暮れには平山良子からお歳暮が届き、1月6日になって、啄木はお礼がてら手紙を書きます。
「一月なり二月なりお遊びがてら東京にお出でなされては如何に候や、御写絵を見る度お目にかかりたく存じ候。」
啄木は、少しおかしいなと感じていたのか、翌日1月7日に、もっと古くからの付き合いがある、みひかり会のメンバー、「菅原芳子」に、平山のことを詳しく知らせてくれ、と手紙を出します。

1月15日にその返事がきます。

日記には、
「菅原芳子から手紙、平山良子は良太郎といふ男だと言つて来た。」

と素っ気なく書いています。

以後、平山良子・菅原芳子の歌の添削は続きますが、二人の扱いは事務的で、極端にトーンダウンしています。
8月ごろ、平山良太郎との間の金銭トラブルがあって、8月13日、平山良太郎宛に出した手紙があります。
この手紙には「平山良子殿」と書かれています。

あくまでも、「女性」として扱っている啄木、啄木のショックはどれほどだったか、騙されたことに対するせめてもの抵抗なのでしょうか。
いや、啄木は騙されたことを認めたくなくて、知らぬふりをしていたのかもしれません。

3 臼杵市の茶房「ふしみや」

大分県臼杵市唐人町に「啄木茶房 ふしみや」という喫茶店があり、店内には、啄木からの手紙や、与謝野鉄幹・晶子からの手紙などが展示されています。

誰あろう、平山良太郎直系の子孫が経営している喫茶店です。

先日、大分市に住む友人にこのことを話すと、友人はさっそくこの茶房を訪ねて、写真を撮り、送ってくれました。

啄木、与謝野鉄幹・晶子、京都の芸妓からの手紙などが展示されていて、ていねいな解説を読むと、その時代背景なども納得でき、とても興味深く読みました。

そして、驚いたことに、『啄木全集』に紹介されている書簡には数多くの箇所に文字の欠落や判読誤りがあることが認められました。

僅か一通の手紙の中に、これほどの瑕疵があるのであれば、全集のすべての書簡や日記について、あるいはその他の作品についても、相当の誤りがあるのではないかと心配されます。すでに、瑕疵が指摘されている箇所も多く、新しい全集の発刊が待たれます。

4 「ようこそ啄木茶房へ」

茶房「ふしみや」に掲示されているボードです。

大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや ウエルカム・ボード

こんなことが書かれています。
ようこそ啄木茶房へ
当店では、先代・平山良太郎が残した明治における近代文学資料や引き札広告を展示しています。個人の手紙は、執筆者の知られざる素顔をのぞかせながら、その時代の息吹を鮮やかに伝えます。特に啄木と交流していた頃のエピソードを物語る書簡を中心に公開していくことが未来に先人の知恵を手渡すことになると考えています

良太郎は、豊後臼杵で文学グループ「みひかり会」を主宰。与謝野鉄幹・晶子夫妻に師事し「石泉」というペンネ一ムをもらい会員の歌の添削指導を仰いでいた。また「スバル」や「明星」など様々な同人誌に歌の投稿を行う一方で、石川啄木や吉井勇、三ヶ島よし子、茅野雅子、矢澤孝子と歌を通して交流していた。
当時の若い人々が、雑誌などに投稿する時にはわざと、男性名を用いずに女性の名を用いることが流行っていた。良太郎も「石泉」や「紫泉」を使わずに「良子」という名を用いて東京の「日本葉書会」に入会し、盛んに書簡の交換をしていた。京都随一の名妓・芝池栄美とも交流していた。
その頃、みひかり会に菅原芳子という人が、啄木と熟烈な恋文を交わしていた、当時色々な雑誌に発表される啄木の作品を読む一方で、啄木のうわさを芳子から聞き、良太郎も啄木と文通したくなり、良子という名で、みひかり会員の作品添削希望と共に手紙を送った。しばらくして返事が来た。会員の作品79首は赤ペンで添削されていた。
ところが、「写真お恵み下さる由、鶴首して待上候」と書かれていた。途方にくれながらも名妓・芝池栄美の写真を添え添削のお礼と共に再度手紙を送った。返事が来た。「君。わが机の上にほほゑみ給ふ美しき君。…」と書き綴っていた。ちなみに当時の啄木の日記に「平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ!」と書かれている。その後も良子という名で交流し、「スバル」にも投稿を続けていた。
ところがある日、以前に与謝野晶子の歌集「佐保姫」の送付依頼をして代金を送っていたのにも関わらず、今もって着いていない事を思い出し途方にくれていた。そこへ親しかった臼杵警察署長が立ち寄り、四方山話をしていたはずみに、「啄木が本を送ってくれない」と口走ってしまった。その頃、啄木は下宿の支払いはとどこおり、日々の生活費もままならぬ状態であった。そこへ突然、本郷の警察署長の名で出頭を命じられ、「平山良太郎という人を知っているか」と尋ねられた。その時、「平山良子=平山良太郎」が判明したのである。
歌集「佐保姫」もまもなく到着した。その後、自分は男性であり本名は良太郎である事、又警察沙汰になった事をありったけの言葉で詫びる旨の書面と別便で名産「柚子練羊羹」の大箱を送った。「スバル」には、もはや「良子」という名ではなく「石泉」で歌を送った。啄木も心をくんで、以前のように歌を指導するようになり、「みひかり会同人誌」や「臼杵新聞」の短歌欄に啄木、与謝野夫妻、平野万里、吉井勇が顧問となった。歌の好敵手・菅原芳子とは数多く投稿しあいながら、本業である味噌製造業にいそしんだ。また昭和天皇御大典記念品として、「伏見屋」の「松茸味噌漬け」が選ばれた。

  啄木茶房ふしみや
   〒875-0041 大分県臼杵市唐人町1組
         電話 0972-62-2237

この時代、男性が女性名で短歌を投稿したり、文通することが流行していたかどうかは裏付け資料を探せずにいますが、現代でも、ネットのホームページ管理者名に女性名を使ったり、掲示板への書き込みに女性名を使ったりすることは常套手段であり、時代を問わず、女性名が警戒心を解く要素になることはあったと思われます。

啄木日記には、翌年、明治42年にこんな記述があります。(関連個所のみ)
・1月5日 臼杵の平山良子から手紙、スバル半ケ年分前金と、“佐保姫”の代金二円三十二銭為替でよこした。
・1月6日 昨日の為替をうけとり、スバルを三部買つて来て平山、橘、高野の三人へ。平山へ手紙、
・1月14日 平山良子から来たうたを見てるうちに午。
・1月15日 菅原芳子から手紙、平山良子は良太郎といふ男だと言つて来た。
・2月5日 平山良子より封書とみ光会詠草来る。
・2月15日 平山良より手紙
・3月8日 今日スバル三号平山良子へおくつた。
・3月9日 平山良子ハガキ(受信)

啄木は、平山良子が良太郎であることを知ったのは、菅原芳子からの手紙であると書いていて、羊羹をもらったことや“佐保姫”を送らなかったこと、警察沙汰になったことには一切触れていません。この時代の1円は、現在の貨幣価値に換算して、ざっと1万円、本代として2万円ほどの前払い金は高額ですから、平山良太郎が、思わず愚痴ったのも当然のことだったでしょう。

その後、日記にも書簡集にも平山良子(良太郎)の名前はしばらくの間、登場しませんが、8月に警察から呼び出されて驚き、すぐに平山良子にわび状を書いています。

この時期の啄木は、与謝野鉄幹・晶子主宰の「明星」を引き継ぐ形で「昴(スバル)」を発行責任者として創刊し、あれこれと悩みながら3号まで発行にこぎつけ、3月1日からは東京朝日新聞に採用されてサラリーマン生活、6月16日には函館に預けていた家族が押し掛けるようにして上京、などと極めて多忙に過ごしていたのでした。

5 啄木直筆書簡と全集記載の書簡の相違

茶房「ふしみや」には与謝野鉄幹・晶子からの書状、京都の芸妓“芝地栄美”からの手紙や写真などが展示されています。

大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや 与謝野鉄幹・晶子夫妻からの手紙
<与謝野鉄幹・晶子からの手紙>

大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや 京都の芸妓“芝地栄美”からの手紙
大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや 京都の芸妓“芝地栄美”の写真
<京都の芸妓“芝地栄美”からの手紙>

s_kyoto1.jpg 大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや 京都の芸妓“芝地栄美”の写真
<京都の芸妓“芝地栄美”>


与謝野晶子・鉄幹、芝地栄美、いずれも達筆な毛筆、そして、啄木が受け取ったであろう写真のあでやかなこと、これでは啄木も友人たちに自慢したくなります。

啄木がこの写真を受け取った直筆礼状が展示されています。

大分県臼杵市 啄木茶房ふしみや 啄木から平山良子への手紙
  
全部で4枚、各ページに啄木の字で「1〜4」のページ数が記されています。

まさしく、明治41年12月5日、啄木が写真を受け取ってその美人ぶりに驚喜して書いたお礼の手紙です。
以下は、今回の啄木直筆内容を判読したものです。

【直筆手紙の判読】・・・全集との相違箇所を赤字で示す。
君。わが机の上にほほゑみ給ふ美しき君。この写絵となつかしきお手紙手に入り候ふは去る三十日の午前十一時に候ひき。その日は終日俥を市中に駈りつ。あはれ心ならずも五日程は空しく過し候ひぬ。君はわがこの返りごとの遅れしをとがめ給はざるべし。我は日毎に新聞の小説を一回分宛かき、また昴(スバル)第一号の編集にこの十日許りを、葉書一葉かく暇だになく急しく過し候ふなれば。
君は若き女にして、我は若き男に候ひけり。若くして貧しき我は、日毎に物思ふいとまもなく打過しつつ、若きが故にさびし、筆とる時も寂し、市ゆく時もさびし、青春の血のもゆるが如き友と語る時は殊更にさびし。
夜更けて束縛多きわが境遇を思ふ時に至りては、涙もなき深き悲痛に目のみ冴えつ。君は、たとへ姉君弟君にわかれ給へりとも猶人に羨まるるきはの人なるべし。さて猶さびしと仰せらるるや、君は誠にさびしきや。わが机の上にある君は、あでやかに美しくほほゑみて我のさびしさを慰め顔なるに! さて君は、待ち待ちしこの写絵を初めて手にとりし時のわが驚きと喜びとを、心のまゝに察し給へかし。あからさまに言へば、君の目は我を唆かす如し、君の口は、何事か我の待設くる事を言はむとしたまふ如し。時ありて酔へるが如き好春の心は我が心を襲ひつ。
君は若し、然れども、思ふに君は世の常の夢見る人にあらずして、既に多少人生の味ひを解し給ふ人なるべし。我も亦然り。されば我らは世の常の夢の如く謎の如き事をのみ語り合ふことをなさざるべし。そは偽りなり。我らの交りはロマンチツクの時代のそれなる事能はじ。君、我らは互ひに思ふまに言はむ。かの兎の如き小供らしき羞は、いかにもどかしき事に候ぞ。
我は君をこよなく美しき人と思ひつ。かかる人と花やかなる電燈の下に語らはむことを願ひつ。さて又、手をとりかはして巷をゆかば、行く人/\皆二人を見かへるなるべしと思ひつ。さらば君は軽く笑ひて我を顧み給ふなるべし――こは我の妄想に候ぞ。
君のゐ給ふ所はあまりに遠く候かな。
     *     *     *
『明星』百号、モ早や本屋には見えず候。小生の手許にありたるを別封にて送上候。小生は又誰からか貰ふべく候へば。
『昴』の広告はそれにて御覧下され度候。小生のは『泥濘』でなく『赤痢』といふ二十頁許りの小説に候。この雑誌は都合ありて金尾文淵堂と手を切り、発行所にて万事やる事と成り、小生公然編輯発行人に署名致すべく候。何卒みひかり会の皆様にて一部づつお買ひ下され候様お勧め下され度候。みひかり会詠草いつにてもお送り下され度候。先日、かのお返しせし分のうち加納といふ人と君のとの載れる新聞一葉お送り下されしが、アレは君よりなりや芳子様よりなりや。どの歌がどの人ののか知りたく候間、外の人のもお見せ下され度候。また『昴』の広告のハガキ差出度存居候間、会員諸姉のお名前と住所至急御一報下され度候
    十二月五日午後一時
                   啄木
 逢ふよしもなき君へ


手紙の大意に大きな齟齬はないのですが、明らかに判読の誤りであったり、文字がごっそり抜けているのには、驚いてしまいます。

この手紙はこうした形で、一般に公開されているのですが、それでも、全集の誤りに気がついていないようですし、この事実はホンの氷山の一角で、啄木の手紙や日記、詩、論説・感想など、啄木の意図を枉げるようなモノになってはいまいかと懸念されるのです。

啄木全集の最も新しいものが、昭和54年発行の筑摩書房版であり、発刊から30年以上も経過し、新資料の発見もなされていることから、そろそろ、新版全集の刊行を切に期待したいと思っています。

 全集の刊行が難しいのは、まずはコストと需要の関係。
 高額になるであろう本、多くの販売部数は望めない

 ・・・であれば、

 ネットでのデジタルブックの公開がいいですよね、
 
 誤りや訂正は気軽に何度でもできるし、アナログの書籍よりは断然コストが低いから、
 できれば、無料で誰もが見られるようになるといいですね。

 青空文庫もがんばっていますが、
 日記や書簡までデジタル化しようとは考えていないようです。

『一握の砂』発刊100周年の本日、
しみじみと啄木に思いを馳せて書いてみました。

    
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。