函館市立待岬の啄木一族の墓

函館市の立待岬に石川啄木一族の墓があります。
お墓ですから、歌碑とは言えないと思いますが、
このお墓には、啄木の代表的な歌「東海の小島の磯の白砂に・・・」が刻まれています。

立待岬は函館市街地から函館山を望んだとき、
函館山の左端にある岬、
津軽海峡に面した風光明媚なところです。

市電の終点「谷地頭(やちがしら)」から岬に向かって行くと、急坂の細い道を進みます。
「石川啄木一族の墓」の白い標柱があります。

函館市 立待岬 啄木一族の墓

函館市 立待岬 啄木一族の墓

お墓の形は樺太の日ロ国境の標石を模したものだそうで、
お墓のオモテ面は啄木が住んでいた青柳町を向いています。

日ロ国境標石とは

函館市 立待岬 啄木一族の墓 歌碑 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる

お墓の場所から青柳町方面・住吉漁港を望む

函館市 立待岬 啄木一族の墓から函館市街地・住吉漁港を望む

「東海の小島の磯の白砂の・・・」の原風景とされる大森浜やその先に続く汐首岬を望む

函館市 立待岬 啄木一族の墓 大森浜やその先に続く汐首岬を望む

立待岬の展望台からは、切り立った崖、青い海、遠くには本州・津軽半島や下北半島の山影が見えます。

函館市 立待岬 啄木一族の墓 立待岬の断崖 津軽半島 下北半島が見える

函館市が設置した案内板の内容です。
 明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で・・・・・」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月、病魔におかされて27歳の生涯を東京で閉じた。大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
 大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。
            函館市

作家であり、「千の風になって」の作曲者としても知られる「新井満」氏はこの啄木の墓にお参りし、啄木と会話を交わしたとその著書に記しています。
(CDブック ふるさとの山に向ひて NHK出版)

墓前に手を合わせ、波の音を聞き、かもめや小鳥の啼く声を静かに聞いていると、
ほんとうに、啄木の声が聞こえてきそうな感じがします。


このお墓の裏面には啄木が宮崎郁雨に送った書簡の一部が刻まれています。
啄木書簡の一節
 これは嘘いつはりもなく正直に言ふのだ、『大丈夫だ、よしよし。おれは死ぬ時は函館へ行つて死ぬ』その時斯う思つたよ、何處で死ぬかは元より解つた事でないが、僕は矢張函館で死にたいやうに思ふ。
君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩先に進んでゐるといふ自惚を此頃捨てる事が出来ない。
   明治四十三年十二月二十一日
   東京市本郷弓町二の十八
              石川啄木
 
啄木は明治45年4月13日に亡くなりましたが、函館で死にたいという願いは叶いませんでした。

参考までに、この書簡の全文を掲載します。
太字の部分が抽出された部分です。
すぐに返事を書きたかつた、また書かうともした、然しとうとう今日迄書けなかつた、近頃僕の頭は疲れてゐる、おつくうだ、直ぐやめたくなる、新年物の約束でそのため破約してしまつたのもある、
書きたい事は澤山あるのだが書けないのだから仕方がない、何とかして夜勤でもやめる工夫をしないことには、身體が績きさうでないやうな氣がして來た、然し凾日へやるのは屹度二十五日頃までに届くやうに送る、大硯病客からも手紙を君のと同じ日に貰つたがまだ矢張返事を出さすにゐる、よろしく、おやおや、本題が(アト)になつてしまつた、僕は君のあの手紙を見、さうして新聞に載つた君の文章と廣
告とを見た時程、この数年の間に最も心強く感じた事がない、これは嘘いつはりもなく正直に言ふのだ、『大丈夫だ、よしよし。おれは死ぬ時は凾館へ行つて死ぬ』その時斯う思つたよ、何虜で死ぬかは元より解つた事でないが、僕をして斯う思はせた君の深い同情に封しては、僕は實際何とかせねばならない位有がたく思ふ、僕の心を諒とせよ、
大硯もいゝ男だなア、僕は大硯の處へも一部送るように本屋へ言ひ附けてあつたのだが、アノ手紙を書いた時はまだ着いてゐなかつたと見える。然しもう著いたらう。
君の批評を讀んで、(さうさう、君、どうしたのか十五日の新聞、乃ち君のの(一)の載つてゐる筈のが、僕のところへ來ない、途中でどうかしたのだらう、この手紙つき次第つき次第日日社へ電話をかけて一枚送らしてくれ玉へ)君が眞向(マツカウ)から書いてくれるのが何より心持か可い、何しろ歌集を二號標題で批評するといふ事が、明治の新聞には未曾有なことだ、況んやそれを何日も何日も績けるといふ事をやだ、更に況んやそれを最も人の目につく第二面に載せるといふ事をやだ、田舎でなくては出來ぬ事でもあらうが、僕は矢張り死ぬ時は函館で死にたいやうに思ふ。
いつだつけ、丸谷君ガら君が演説の修業をしてゐるといふ話をきいて嬉しかつた。君を議會に出さうぢやないかと僕は戯談に言つた事があつたが、然しそれは戯談ぢやない、君の進むべき路は矢張其處
だよ、
昨日社から賞與を五十四圓貰つた、子供の葬式、野邊地の老僧が死んで父が行つて来た時のおくれ(、、、)、それから例の君も知つてる筈の下宿屋ののこり、そんなのを拂つたら今朝はもうない、この歳暮の財政は何う勘定しなほしてみても二十五圓許り足らない、僕の頭は暗い、つくづく厭になつた、來年から家計の獨立を計らうと思つた、月十圓の金が欲しさに夜勤もやつた、然しもう厭になつた、年でも改まればまた元氣でも出るかも知れないが、少くとも今の所では僕は何もかも厭だ、一年間保険付といふ枕時計を去年の十月買つたつけが、一年過ぎたら正直にも先月から狂ひ出した、(トマ)つて止まつてしやうがないので、シコタマ石油を()してやつたところが、今度は一時間に十五分も二十分位進む、狂つた時計に對して僕は悲しい思ひがある、油!油!油?君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでゐるといふ自惚を此頃捨てる事が出來ない、若し時間さへあつたら、屹度書きたいと思ふ著述の考案が今二つある。一つは「明日」といふのだ、これは歌を論するに托して現代の社會組織、政治組織、家族制度、教育制度、その他百般の事を抉るやうに批評し、昨日に歸らんとする舊思想家、今日に没頭しつゝある新思想家――それらの人間の前に新たに明日といふ問題を提撕しようといふのだ、も一つは「第二十七議會」といふのだ、これは毎日議會を傍聴した上で、今の議會政治のダメな事を事實によつて論評し議會改造乃ち普通選挙を主張しようといふのだ、おやおやもう紙が盡きる、皆さんへよろしく、節子は心配はないが藥はまだ飲んでゐる、(分娩以來半月許り中止したつきり)
   十二月二十一日
              啄 木
 郁 雨 兄

この手紙、ストレートには書いていないのですが、宮崎郁雨に対する借金の依頼です。
この手紙を書いた時期、妻節子の病気の薬代がかさむなど、生活苦はいっそう啄木の肩にのしかかります。
自暴自棄ぎみになっていたのか、克明な日記も書いていない時期でした。
年末に至って、この年の回顧をまとめて書いていますが、末尾には借金メモを記しています。
書き出した借金の総額は165円65銭でした。

そして、12月26日に、宮崎郁雨あてに電報を打ちます。
ヒ一ニチクルシクナリヌアタマイタシキミノタスケヲマツミトナリヌ イシカワ

啄木一族の墓の裏面の書簡の一部分は、函館に対する切々たる思いを書いているように見え、このお墓を建立した郁雨たちがみごとに編集したのですが、

このころの啄木の暮らしと照らしてこのお墓の前に立つと、切なさがこみ上げてくるのを禁じ得ません。


 
posted by GG at 23:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 銅像・歌碑
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